徳成寺とは

徳成寺の歴史 波乱万丈・400年の歴史

江戸時代にできた徳成寺

徳成寺の歴史

今から400年ほど前の慶長14年・1609年、ちょうど江戸時代が始まった頃、利慶さんというお坊さんがお寺を建てました。そのお寺が徳成寺です。

 

江戸時代の地図それ以来、高松藩のお殿様、松平家のおかかえ寺になり、お米をもらったり、佛事にも呼ばれてお勤めしていたようです。

 

言い伝えによると、お殿様の教養係として功績を積んだようでお殿様から寺紋を頂いたり、武士だけの特権である名字帯刀を許された特別なお寺でした。江戸時代には、「讃岐五ヶ寺」という香川県の中でも指折りのお寺の一つに数えられていました。

徳成寺の苦境

しかし長い時の流れの中ではいいことばかりではなかったようです。
数年前に、見知らぬおばあちゃんが古い巻物を持って現れました。
「お蔵の中を整理していたら古い巻物が何本か出てきたのですが、紐解いて読んでいたら徳成寺の名前があったんです。」とのこと。

 

巻物の文章はおばあちゃん一人の力では読むのが大変で、近くの大学の先生に話す言葉に直してもらって読んだそうです。その巻物には、潰れかけていた徳成寺を、おばあちゃんのご先祖様が私財をなげうって再建をしたと書かれてありました。今から二百年ほど前のことでした。

 

そして江戸時代が終わって明治時代になると、お殿様はいなくなり、お米ももらえなくなりました。
もともとお殿様のおかかえ寺であった徳成寺は門徒さんが少なかったので、先祖代々の土地を貸して
生活をしていました。また明治期の廃仏毀釈(仏教排斥運動)の嵐を耐え忍びました。

高松空襲

高松空襲

一番厳しかったのは、昭和20年7月の高松空襲により、
高松市中心部が全焼し、徳成寺も丸焼けになってしまったことです。

 

栗林公園から高松港までの直線2キロの範囲にわたって焼け野原となり、1300人以上もの方が亡くなりました。
法要に使う大切な掛け軸は郊外にある遠い親戚にあたるお寺に疎開させていましたが、

家具や着る物など、生活用品は全てお寺と共に灰になってしまいました。

 

すでにお寺の鐘や仏具は鉄砲の弾に使うというので、国に供出していたので本当に何もなくなってしまいました。

高松空襲

でも、ご本尊の阿弥陀さまだけは、先代の住職が背中に縛って戦火をくぐりぬけ、無事でした。

 

戦後の農地解放により、お寺の田畑は全て農家の人々に分けてあげなければならなくなりました。

 

また徳成寺周辺の土地・借家の不動産収入があったらしいのですが、戦後はそれらを少しずつ売って、細々と生活をしていました。

人のいい先代住職

先代住職

戦後の混沌とした時代、暗躍する悪徳業者にだまされて、二束三文で買い叩かれたこともあったようです。当時のことを知る門徒さんは、「徳成寺さんは人がいいから、それにつけこまれたんだ。本当に気の毒だった」と語って下さいました。

 

先代住職は、「お坊さんは清貧を貫くべき」という教えを守り、訴えたいのは山々でも辛抱した・・・
と口癖のように言っていました。つまり、それまでは何も不自由のない暮らしをしていたのですが、敗戦を境に何もない生活に突き落とされたのです。
当時、五十歳を過ぎていた先代住職にとって、お寺の再建は荷が重かったようです。大変落胆して、お寺を存続する情熱すら失いかけていました。

寺地移転

そこに当時、青年だった先代住職の息子(現住職の父)が、お寺の再建に乗り出したのでした。
空襲で高松市内は全て焼けてしまって、寺町のお坊さんたちは今の場所に残って再建するか、郊外に引越しするかの選択を迫られたようです。灰になった寺院の跡を見て途方に暮れるお坊さんたちの間では、元の土地を売って新しい土地に移転するムードがあったようです。

 

その界隈で、賢いと評判だったあるお寺さんが移転を決意したのを皮切りに、力のある寺から再建がはじまりました。そして、徳成寺も移転を決意したのでした。

 

再興の地は、郊外ではなく、元の土地から800メートルほど離れた空き地でした。
郊外に移転してしまっては今まで大切にしてくれた門徒さんたちと離れてしまう・・・当時、交通機関が発達していなかった郊外への移転は近くに住む門徒さん達とのお別れを意味していたのです。

 

先代住職 大山勝先代住職の気持ちを思いやって、若かった父は寺町の一角にあったお寺が建っていた土地を売り払い、そのお金で現在の土地を見つけて、一切寄付に頼らずに本堂を建てたのでした。

 

戦災から十四年後の昭和三十四年に、徳成寺は、この地に本堂を再建しました。
当時、本堂といえば木造が当たり前の中、桜色の神殿のような鉄筋コンクリートの本堂を建て、当時は香川県で初めてだ!と新聞でも騒がれたそうです。

 

今も外観は当時のまま、大切にしています。
先代住職は孫が継ぐ姿を夢見ながら平成二年一月十四日に亡くなるまで現役住職を続けました。